Zeroichi ゼロイチ 創業社長物語 #002林英俊 #5 「アレックスの夢」
創業社長の共通点とは、なんだろう。七転び八起きの人生、生死をかけた壮絶なる体験、事業立ち上げの苦労……。それぞれに悲喜交々のストーリーはあるが、必ず持ち合わせているのが、物ごとをゼロからイチへと推進させた経験だろう。「ゼロイチ 創業社長物語」では、そのプロセスをノンフィクションライター鈴木忠平が独自目線でヒモ解いていく。

揺れ動くシーソーの真ん中
金曜日はもう午後になっていた
フロントガラスの向こうに読売ランドの観覧車が見えてきた。運転席の大川富美子はふとバックミラーを覗いた。後部座席の林俊英はスマートフォンを手に、シートにもたれたまま目を閉じていた。おそらく昨夜もほとんど眠っていないのだろう。
林はオペの前の晩になると、患者のカルテを側に、リビングに設置されたデスクトップの前から離れなくなる。どこにメスを入れて、どう繋ぐか。シミュレーションをしているのだろう。大川が帰る段になっても、灯りはついたままになっている。それでいて、翌朝にはあの軽快な足取りでスタッフや患者の前に現れる。
大川は後部座席から聞こえる微かな寝息を耳にしながら、やはりこの人はつくづくドクターのイメージから外れた人だと思った。
権威や特権的なことに関心がないように映るのだ。
「大川さん、僕はね、子供たちやカミさんに、パパかっこいいねって思われればそれでいいんだ。そのために仕事しているようなもんだよ」
唐突にそんなことを言い出したりもする。
苦悩がないと言えば嘘になるだろう。口にも顔にも出さなかったが、さまざまな立場の人間が携わり、巨大な利権がうごめくジャイアンツでは抱えている葛藤も多いはずだった。
選手たちは怪我を隠してでも試合に出ようとする。監督やコーチはより万全な選手を使おうとする。そして球団フロントは両者を結果で判断する。チームドクターは三者のいずれにも寄らず離れず、その揺れ動くシーソーの真ん中で判断を下していかなければならない。
なぜ林がチームドクターなんだ? という学閥に属する医師たちからの視線も常に感じているようだった。
だが、林はそうした環境のなかで、いずれとも断絶することがなかった。
AR−Exグループに100人ほどいる理学療法士やトレーナーたちとも、KONAMI体操部や巨人軍の医療スタッフとも、パラレルな関係を築いていた。
「あなたたちが主役なんだよ」と林は現場のスタッフたちに言った。
「理学療法士もトレーナーも、ドクターも患者も、みんなで一緒に治していくんだ」
林がそう口にするのは、理想論というわけではなく、失ったものを取り戻すには本当にそれしか道がないからなのだろう。
林と行動をともにしていると、テレビの特集番組に出てくる「スーパードクター」が非現実的に見えてくる。少なくとも整形外科には、メスで何かを切っただけで完了する治療など存在しないはずだ。それだけは医学界の人間ではない大川にもよくわかった。ひとりの希望は、あらゆる人の手によって繋がれるのだ。
空をバックにジャイアンツ球場のバックネットが見えてきた。
後部座席はまだ静かなままだった。
林の治療は生きることそのもののように見えた。執刀したピッチャーが白球を投じるとき、体操選手が着地の衝撃に耐えるとき、林は目を覆い隠しながら祈るようにしている。せっかく繋いだ希望が切れてしまうかもしれない……。そう考えると直視できないのだという。
「傷を診ると、その人の人生が見えちゃうんです。それは良いことでも辛いことでもあるけど、僕は本音では、そうやって全ての人の人生に関わっていければいいなと思っているのかもしれない」
そうやって、林は目の前の患者に没入していく。その果てに、たまに電池が切れてしまったようになる。そして束の間の眠りから目覚めるとまた早足で歩き出すのだ。
大川はバックミラーに映る寝顔を見ながら、到着するまでは声をかけないでおこうと思った。
クリニックの患者やスポーツ選手たちがたまに、苦笑いしていることがある。
「林先生の言っていることが、よくわからないんです」
それには大川も覚えがあった。林の言葉は、その場では理解できないことが多いのだ。
ただ、3ヵ月が経ち、1年後、3年後になると、ああ、そういうことだったのか、とわかってくる。
林にはやはり他の者には見えない未来が見えているのかもしれない。だからこそ、あんなに早く喋り、あんなに早く歩くのかもしれない。そう考えれば咎め立てるどころか、称賛すべきことなのかもしれない。
ただ、やはり早口だけは直した方がいいーー。大川はそう思って、ひとり微笑むのだった。
終わり
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Hidetoshi Hayashi
AR-Ex Medical Group
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